ご挨拶
この度は、大阪市中央区にある「行政書士上原信雄法務事務所」にお越しいただきありがとうございます。
当事務所代表の上原信雄と申します。
近年の社会生活の複雑高度化により、許認可申請手続きは、ますます複雑化・専門化しています。
人は人生でいくつかの大きな岐路に立ち、その際に限られた時間の中で複雑な行政手続きを行わなければならない場面があります。ひとりでは、複雑化・専門化する手続きが困難で挫折してしまいそうになることがあるかもしれません。もしかしたら、あなたの「夢」をあきらめてしまうことになるかもしれません。そんな時は、「街の身近な法律家」である行政書士に相談をしてほしいのです。
行政書士の業務も従来の依頼された通りの書類作成を行ういわゆる代書的業務から様々なコンサルティングを含む許認可手続きへと移行してきております。当事務所では、皆様の描く未来=夢の実現に向けて、高度情報通信社会における行政手続きの専門家として皆様のサポートを行ってまいります。
■自己紹介
上原信雄(うえはらのぶお)
行政書士上原信雄法務事務所 代表行政書士
昭和45年8月 愛知県名古屋市生まれ(幼少より春日井市で育つ)
B型 獅子座
趣味は、街歩き、お酒、読書、サウナ
【出身校】
愛知県立高蔵寺高等学校
北海道教育大学
【職歴】
大日本印刷株式会社
株式会社富士経済 ほか
現在、行政書士
【私は、こんな人間です】
はじめまして大阪市で主に許認可・登録申請を行う行政書士の上原信雄(うえはらのぶお)と申します。
私は、愛知県の名古屋市で生まれ、名古屋のベッドタウンと言われる春日井市で育ち高校まで過ごしました。
高校は、愛知県立高蔵寺高等学校(東京の多摩、大阪の千里と並び日本三大ニュータウンと言われる高蔵寺ニュータウンにある学校)に通いました。
~ 高校時代のエピソード ~
高校時代は、将来医者になりたい等と夢を持ったこともありましたが、残念ながら家が貧乏(母子家庭)だったこともあり、挫折して、高校3年生になり受験間近のタイミングで進路担当の先生からのアドバイスで国立大学理系コースから国立大学文系コースに編入となりました。ちなみにこの国立大学文系コースは、「女子クラス」です。
ですから当然クラスに馴染めるはずもなく、また体育の時だけは、着替えがある関係から、別のクラスの授業に参加するといった、かなりイレギュラーな生徒となり、複雑な気持ちでいたことを記憶しています。でも、このクラスには、高校一年生の時から通学の電車やバスでよく見かける憧れの女の子がいたのです。これは、本当に嬉しかった記憶があります。
でも、先ほどでも触れたとおり、クラスと全く打ち解けることが出来なかったため、声をかけることも出来ず、そのまま卒業に至ったのです。私にとっての甘酢っぱい青春の思い出です。
~ 受験から大学生活までのエピソード ~
大学は、もちろん医学部ではなく、女子クラスの影響もあり、当時人気のあった教育大学へ進学しました。また、少しでも地元から遠く離れた街で学生生活をエンジョイしたいという思いから、北海道の教育大学に進学しました。実は、北海道ではなく沖縄に行きたいという気持ちも強かったのですが、その当時私と一緒に暮らしていたお婆ちゃんが、沖縄は日本じゃないと言って猛反対したため、北海道を選択するに至りました。(沖縄の方には、大変失礼なことなのですが、お婆ちゃんにとっての沖縄は、アメリカの占領地という強烈なイメージがあったようです)
そこで、私はお婆ちゃん子でしたので、素直に従い、北海道へ行く決意をしたのです。大学に入ってからは、やはり北海道の大自然を満喫しなければと思い、車(スカイライン)をローンで購入し、友達と一緒に道内を旅行しまくりました。(車はもちろん中古なのですが、今でもよくローンの審査が通ったなと思います)今でも、港町にある炉端で地元の漁師さんたちと一緒にお酒を飲みながら、語り明かしたことを記憶しています。本当に北海道の大自然は、人生観を変えてくれたと思います。
高校時代の女子クラスでの窮屈な環境から一気に解き放たれ、北海道の自然を満喫するとともに、心にゆとりが生まれて自分に自信がもてるようにもなっていました。
~ 就職、その後のエピソード ~
就職は、民間の大手印刷会社に就職しました。当時、私の母校では卒業生の90%以上が教員になるのが当たり前でしたので、学校からは、変り者というイメージで見られました。一時期は教員になろうと思っていたのですが、教育実習に行った時に「学校」という職場に、何か閉鎖的で硬直的な感覚を抱いてしまったことと、当時のトレンディードラマの主人公のイメージ(一流企業に勤め、スポーツカーを乗り回し、可愛い子と恋愛している)に引きずられてしまったのです。
そこで教員ではなく、民間企業への就職を決めたのですが、最初は少し公務員に近いお堅いイメージのあった金融機関に行きたいと思い、銀行や証券会社を受けていました。
結果、いくつかの大手金融機関からの内定をもらうことも出来たのですが、この時もお婆ちゃんが貧乏人は金融機関に就職してはいけないと言って猛反対したため、金融機関への就職を断念し、趣味であった写真が縁で印刷会社に就職しました。(OB訪問をした時に、先輩から写真が好きなら、印刷会社が向いていると言われたため)
そして、社会人としてのスタートを切ったのでした。
~ 社会人経験を通じて行政書士へ ~
印刷会社での仕事は、本当にハードでした。私は営業本部に配属されたのですが、いつも同期とは、顔を合わせるたびに「今日もお互い生きてるね」と声を掛け合っていました。オフィスは、半分冗談ですが「不夜城」と噂されていまいた。
仕事は営業でしたが、御用聞き営業ではなく、お客様の課題の解決につながる新しい仕事を自ら造り出して提案する「造注」営業を行っていました。
今の言葉で言えば「ソリューション」です。
そんな活動を続けていくうちに、企画力に物を言わせる提案ではなく、提案の背景にもっと説得力が欲しいと思うようになり、「マーケティング」を勉強したいと思うようになり、思い切ってマーケティング調査会社に転職をいたしました。
マーケティングの仕事は、本当に新鮮でした。今までは受注産業とはいえ、モノを作り、納めて、その対価としてお金をもらっていましたが、マーケティングの仕事は、モノを作ることもなく、情報で高額な費用を請求することが出来るからです。この仕事は、私にとって天職とも言えるくらいやりがいと楽しさを感じていました。
そんな時、大阪にある印刷会社からヘッドハンティングの話が浮上し、今までの経験や知識を活かすチャンスだと考え、転職をしました。この会社に入ってからは、様々なサービスや事業の開発を行うことになり、悪戦苦闘しながらも頑張ってきました。しかしながら、時代の進歩は目覚ましく、今までの経験や知識だけでは、競争力のあるサービスや事業を生み出すことに限界を感じるようになってきていました。
そこで、マーケティングとは異なる「説得力」を持つ武器とは何かを考えているうちに「法律」という答えに導かれたのです。
でも法律の勉強は、当時の私にはとても大変でした。働きながら、いかにして勉強の時間を作るのか、本当に悩み苦しみました。そこで睡眠時間を極限にまで絞り、早朝から勉強することしました。その結果、当時の私にとっては高嶺の花であった行政書士試験に合格することが出来たのです。
これが私の「法律」と向き合うことになったきっかけです。
その後、法律の勉強を続けていくうちに、行政書士として仕事をしていきたいと思うようになり、ついには安定した職場を捨てて、行政書士として独立をすることになったのです。
いかがでしたでしょうか? 決して立派な人間とはほど遠い人間ではありますが、「やる」と決めたからには、皆様のお役にたてるように全力を尽くす所存です。
事業コンセプトに掲げさせていただいているのですが、常に「お客様から学ばしていただいている=成長させていただいている」という気持ちを持って皆様をサポートさせていただきます。皆様の「夢」の実現に少しでも関わらせていただければ幸いです。





